浮世絵で見る上野・浅草

第2回 駒形堂吾嬬橋

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:上野なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

叶わぬ恋とホトトギス

蔵三さん、ずいぶん久しぶりじゃないですか。「連載って宣言しながら1回でおしまいかよ」って読者の皆様からクレームが殺到してたんですよ。

うるさいなぁ。悪かったよ。こちとら持病の糖尿病が悪化するわ、前立腺が悪くなって入院するわ、五十肩で腕は上がらなくなるわって、病気のアパートじゃなくてデパート状態だったんだよ。

みんな運動不足とかお酒の飲み過ぎとか、甘いものの食べ過ぎとか、蔵三さんの不摂生のせいでしょ。

あ〜そうだそうだ。みんな自分のせいだよ。でもなぁ、酒も飲まず甘いものも食べずに人生に何の楽しみがあるんだ? こないだも「駒形どぜう」本店に行ってたらふく泥鰌とナマズを食ってきたよ。酒が美味かったなぁ〜。

「駒形どぜう」って…。確かに美味しいかもしれませんけど、そんな堕落した生活を送りながら連載を休んでたなんて、どうやって読者に弁解するんですか?

弁解なんかしませんよ。その「駒形どぜう」本店のすぐ近く、駒形橋のたもとが今回の浮世絵のテーマなんだから。広重の名所江戸百景「駒形堂吾嬬橋」(写真左)だ。駒形堂って、地元の人ならだれでも知ってると思うけど一応写真を見せておこう。


でも、この絵のどこにコマガタドウが描かれているの?空と川と旗と鳥の絵にしか見えないけど。

あのねぇ、コマガタドウじゃなくてコマカタドウ。地元ではこれを縮めてコマンドーとも言うけどね。コマガタなんて言ったら浅草じゃ観光客だと思われるよ。それにねぇ、対象物を中心に据えずにそれとなく対象物を感じさせるのが広重のユニークさだ。左下に駒形堂の屋根の一部しか描かれてないだろ。こうした構図の斬新さがヨーロッパでジャポニズムを流行させた原因のひとつなの。

ふ〜ん。でもワタシには鳥と真っ赤な旗が強烈過ぎてお堂はあんまり印象に残らないけど…。

まぁ、ある意味そう感じるのが普通で、それが広重の意図でもある。鳥の方は後で説明するとして、赤い旗は「紅(べに)あります」という意味。駒形堂の斜向いにあった紅屋百助の看板みたいなものだ。

紅って口紅とか頬紅の紅?。


 
そう。お堂の脇に口紅の看板っていうのはちょっと不謹慎ではあるけど、これは、駒形堂の前に渡し舟があったことが関係しているんだ。関東大震災の復興事業として駒形橋ができたのは昭和2年。それまでは渡し舟が使われていた。

だから、この絵では駒形橋じゃなくて遠くに吾嬬橋(吾妻橋)が描かれているのね。

その通り。で、駒形の渡しというと吉原通いの遊び人が使う代表的な渡し舟の一つだったわけ。夕暮れ時になると、舟を降りて駒形堂の前から吉原へ向かう。その前にお気に入りの遊女への土産として紅を買ったりしたわけだ。

おみやげにブランド物の化粧品って、今でもあるわよね。


免税店でオジサンがメモや雑誌の切り抜き片手にウロウロしてたりするもんな。江戸時代は京都産の「京紅」がトップブランドで、『金一匁(もんめ)紅一匁』というぐらい値段も高かったけど、ご指名トップの遊女なんかは、今のマニキュアやペディキュアのように使ったり、耳たぶにもほんのり塗ったりしたんだ。

そのへんの事情は今も昔もあんまり変わらないってことね。


さて、ここからは虚実入り混じった話だからあくまで巷説として聞いて欲しい。万治元年(1658)、4代将軍家綱の時代に、この渡しからせっせと吉原通いをしていた一人の大名がいた。伊達綱宗、あの独眼竜政宗の孫にして仙台藩62万石の殿様だ。肖像画もあるよ。


えっ、そんな有名な大名も夜遊びなんかしてたの? びっくり。


綱宗は20歳そこそこで家督を継いだから、重責を担うプレッシャーも強かったんだろうね。仙台堀の普請がようやく一段落して、ほっとして供の者と吉原に繰り出したことが彼の運命を狂わせた。そこで出会った人気ナンバーワンの花魁・二代目高尾太夫に一目惚れ。以来、連日連夜吉原に通い詰めだ。

家柄が良くて下手にお金持ってると危ないわよね。最近でもギャンブル狂いで会社の金を引き出したおぼっちゃま社長がいたもんねぇ。

高尾太夫が綱宗に宛てて書いたラブラブな手紙にこう書かれてあった。「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ」。そして詠んだ有名な句が「君はいま 駒形あたり ほととぎす」。

ラブラブって言われても意味分かんないけど…。


最初の方はわかるだろ。「御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候」ってのは「いつもあなたのこと思ってるから、思い出す必要もないくらい」ってな意味だな。で、「君はいま 駒形あたり ほととぎす」ってのは「アナタは今駒形あたりにいるのかしら。ホトトギスが忍び音漏らす時分に」ということかな。

ラブラブの意味はよくわかったけど、ホトトギスの忍び音って何よ。

ホトトギスは夜も鳴く性質を持っているんだ。でも、それ自体凄く珍しいことだから、昔は忍び音を聞くためのツアーがあったぐらい。ここまで言えば広重が描いた鳥がなんだかわかるだろ。

ははぁ〜、絵の中で飛んでるのはホトトギスなんだ。有名な句にひっかけてそういう謎掛けをしてるわけね。なるほど〜。

結局綱宗は放蕩が祟って3年で蟄居させられる。そのあとを継いだのが、まだ2歳の綱村だったから、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝が後見人のようになって実権をふるうようになる。この宗勝一派の専横ぶりを反宗勝派の伊達安芸らが幕府に上訴した一連の騒動と流血事件が有名な「伊達騒動」で、これを題材に歌舞伎に仕立てたのが『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)。そしてこの事件に大胆な新解釈を加えたのが山本周五郎の名作『樅ノ木は残った』なんだ。

あ、2年前ぐらいにテレビで見たような気がする。確か田村正和さん主演だったわよね。

一番有名なのはNHKの大河ドラマで、平幹二朗主演だったけどね。まぁ、その話は置いといて、巷説では綱宗が言うことを聞かない高尾太夫に腹を立てて屋形船で吊るし斬りにしたとか、いろいろ尾ひれが付いて面白おかしく語られているんだけど、吉原通いの裏には、綱宗が皇室と親類関係にあったから、皇室と組んでの謀反を恐れる幕府の目を逸らすため、わざとバカ殿を演じていたという説もある。隠居後の綱宗は書画に素晴らしい作品を残していて、バカ殿とは程遠い人物像なんだよね。

ということは、伊達家って、幕府にとっては怖い存在だったのかもね。

だから『樅ノ木は残った』のように、当時の最高権力者酒井雅楽頭(うたのかみ)が秘かに伊達家取り潰しを狙っていたという話も結構リアリティを帯びてくる。まぁ、その雅楽頭も徳川綱吉の5代将軍就任を反対したことが自らの命取りになるんだけどね。

政治の世界は今も昔もドロドロしてるのね。


まぁ、そういう下世話な話はこれくらいにして、肝心の駒形堂の話をしよう。ご本尊は馬頭観音立像で、れっきとした浅草寺の一部だ。この絵が描かれた頃は隅田川に正面を向けて作られていたから、参拝者はまずこのお堂をお参りしてから観音堂に向かうというのが一般的だった。

ははぁ。渡し舟の役割も昼と夜は別々だったわけね。


まぁ、昼も夜も“觀音様詣で”には違いないけど。


この連載の品位を落とすような発言はやめて下さい。セクハラで訴えますよ。

お〜怖い、怖い。駒形堂の創建は朱雀天皇の天慶5年(942)で、建立者は安房守平公雅。名前の由来は、舟からこの堂を見ると、白馬が馳けているように見えたので「駒馳け」と呼んだのがなまったという説、絵馬を掛ける「駒掛け堂」がなまったという説、駒形神を相州箱根山から勧請したからという3つの説がある。今のお堂は震災後の昭和8年に場所を移して再建したものを、さらに平成15年に建て直したんだ。<次回へ続く>

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